「お国柄」について考えたことの覚え書き

昨日福岡に到着し、太宰府天満宮にも無事に参拝ができました、目的はもう達成しましたので、本日はとりあえず地下鉄に乗って海沿いの公園に来て見ました、今目の前にある景色がこのお写真です、風が吹いてて気持ちが良いのでしばらく休憩しております

ここも大変静かな公園なのですが、なぜか、私にとっては弘前公園よりも賑やかに感じます、何にそんなに差があるのかはわからないのですが強いて言うなら「ここの方が南だから」みたいなことのような気がします

休憩がてら昨日から考えてたことをここに書いてみます

博多や天神駅のあたりを歩いていたり、博多山笠祇園祭りの資料館で祭の映像を見たりした際に感じたのが、「自分が思っていた以上に日本国内だけでも『人種』って違ってたのかもしれないな」ということでした、科学的な分類としてはいざ知らず、文化や考え方、何が好みで何が苦手か、無意識的な価値観というものは生まれた土地によって結構な影響があるのだと改めて感じました、そういう感覚に自分は今まで本当に無頓着に過ごしていたなと思います(もっともそういうことに全く執着しなくても普通に生きてゆけるというのも事実です)

そんで、その「お国柄」というべきものは、必ずしも生まれた土地とその人自身とでがっちり結びつくとは限らず、自分のように、生まれた土地以外の「お国柄」がしっくりくることだってあるんだな、とそう考えたのでした

日本語が通じるなら日本のどこでも住めるだろう、という考え方は世間一般から想定されるよりも実はずっと多くの誤りを含んでおり、だからこそ、その逆の作用で「ピンポイントな事例としてドンピシャとハマる」ということがあちこちで起こっているのだと思います

そこから考えたことが2つ、「『全国相手』とか『全世界相手』とかのくくりで何かをがんばろうとしてもダメだろうな」というのと、「自分自身を一番面白がらせる方法を本当に全力で考えてやっていられたらそれでよさそうだな」ということでした

これだけいろんな考えだとか、価値観だとかがひしめき合っている中で『知らない価値観がある』という尊敬を忘れたらもう目も当てられない訳ですし、その一方で、それでも「誰かを誘える」「誰かの役に立てる」ということをするなら自分自身に曇りがあったらやっぱしきっとうまくいかない

まず喜ばせるのは自分自身、自分に喜んでもらえるぐらいのものができたならば身近な誰かのお役にだって立てるかもしれない、その先もあるかもしれない、逆にそこでだめだったならばそれは『自分が足りてない』ということなのでまた足せばいい

ひとまず今はそういうことで、そんでこの先もっと賢しくなれたらばまた新しいことが思いつけるのだと思います

本日は夜に飛行機に乗りまして東京戻ってきます、博多の見聞録はその後に軽めにまとめておこうと思います、よろしくお願いいたします

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